今日も独りで立ち話

ポンコツ博士課程の院生が思ったことをそのまま書くブログ

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【マンガ】 鬼滅の刃の感想・考察・妄想あれこれ-vol2

前回からだいぶ間が開いてしまった

 

 

www.tachibanashi.com

 


 

前回はヒノカミ神楽についてつらつら妄想を垂れ流したけど、最近の話に関する妄想も書いておこうと思う

 

 

「極めれば行き着くところは同じ」

 かつての日の呼吸の使い手が放していた、極めれば行き着くところは同じの意味について

 

結論から言えばこの言葉が意味するところは、寿命が縮む&鬼化するということだろうと思われる

 

まず全集中の呼吸は増強させた心肺によって、血液の巡りを良くし一時的に身体能力にブーストをかける鬼殺隊の技術で

当然、身体には過剰な負荷がかかってしまうため、きちんと鍛えていないと自分にも相当のダメージが残ってしまいます

 

また体に合う呼吸・合わない呼吸が存在しており、合わない呼吸ではうまく力が発揮できないことも明言されています(炭治郎の水の呼吸とか)

 

炭治郎の父親である炭十郎は見るからに衰弱していましたが、これは体に合わない呼吸を続けたことによるダメージの影響があったのではないかと思われます

 

また感情の高ぶりによって、最大心拍数がさらに増大すると「痣」が出現し、さらに身体能力が向上することが鍛冶屋の里襲撃編で明らかになっています

 

「痣が発現したかたはどなたも例外なく~」と何か秘密があることもわかっており、かつこの現象は不可逆であるようです

 

「人の心臓は一生に拍動する回数が決まっている」というある種の迷信について調べると興味深いことが書かれていました

 

実は哺乳類の場合、いろんな動物の寿命を心周期で割ってみますと、15億という数字が出ます。つまり、哺乳類の心臓は一生の間に15億回打つという計算になるわけです。

(参考:ゾウの時間・ネズミの時間 本川 達雄 氏

 

つまり、心拍数を異常に高めた状態を維持することで心臓が打てる回数が減り、それによって寿命が減っていくのではないか、という結論に達しました

 

実は、縄文人の寿命は31年だったという推測値があります。本来の人間の寿命はそのくらいなのかもしれません。15−16歳で子供をつくって、ある程度子育てして次の世代にバトンタッチしていくという循環だったんでしょう

(参考:ゾウの時間・ネズミの時間 本川 達雄 氏

 

悲鳴嶼行冥さんが「私は一体どうなるのか」と言っていたのは年齢が生物学的な寿命に近く、もうすでに呼吸によって身体がダメージを負っていることからの台詞でしょう

 

おそらく鬼殺隊では30くらいで前線から、後進育成の立場へと移っているのかなと

そこまで生き残れた隊士を寿命が尽きるまでこき使うのではなく、余生は育手として頑張ってもらう感じでしょうか

 

 

さてなぜ鬼化するのではないか、という妄想になったかというと

1つは痣が鬼の紋様に似ていること、もう1つは黒死牟が日の呼吸の剣士にそっくりであることが要因です

 

呼吸をある種極めることで発現する痣の形は、各呼吸によって異なっており、その形は鬼の体に浮かぶ紋様と似ていることが明言されています

そもそも呼吸とは人のまま鬼に匹敵する力を得るための技術で、「人から鬼に近づく」ことを意味しています

 

したがって、呼吸によって人から鬼へと近づき、一線を越えてしまうと人でありながら人でなくなり、最終的には鬼になってしまうのではないかと考えています

 

 

これまでの描写を見ていると

体への負担は派生呼吸よりも、元の日の呼吸(ヒノカミ神楽)のほうが圧倒的に大きそうです

 

痣を発現し一線を越えた状態で、負荷に体が耐えられなくなったそのときが、人から鬼へと移り変わる瞬間なんじゃないかと妄想しています

 

黒死牟が竈門家に日の呼吸を託したのは自分の寿命の人としての終わりが近いため、やむを得ず伝承したのではないかと思います

その後、体が限界を迎え鬼化し、鬼辻の配下になったのかなと

もちろん、なんで鬼辻の言うことを素直に聞いているんだ、みたいな問題は残ってしまいますが…

 

 

鱗滝さんのお面

選抜試験で鬼が襲う目印となっていたお面はあそこで割られたきり出てきていません

当初は常備させる予定だったけど、書くのが面倒とかデザイン的に邪魔だから無くしたとかメタ的な事情は考えられますが、もう一度出てきてくれないかなという妄想です

 

選抜試験以来、全く登場していないお面ですが

これは炭治郎が水の呼吸の正統な使い手でないことの比喩だったんじゃないかなと思っています

 

つまり、お面をつけられるのは水の呼吸の継承者である冨岡義勇さんただ一人なのではないかと

 

今は本人がコンプレックスを色々とこじらせているので、自分は柱にふさわしくないだのなんだの言っていますが、今後の展開として義勇さんがお面をつけるシーンがあるのではないかと期待しています

 

シチュエーションとしては、水の呼吸の柱として自分で自分を認めた義勇さんが、猗窩座かだれかの強敵と対峙したときに、懐からおもむろにお面を取り出し装着、そしてしがらみから解放され真の力を発揮する義勇さんが見たいですね

 

 

 

雷の呼吸漆ノ型 火雷神

これはまだあんまりまとまっていない

 

 日本神話の中では火雷神は、伊邪那美命の体に生じた8柱の雷神の1柱だが、ここでは8柱の雷神の総称として火雷大神の呼称が用いられる(この1柱の火雷神については後述

 

火雷大神 - Wikipedia

 

火雷神はイザナミから生まれた雷の神様

イザナミは黄泉の神様で黄泉比良坂ではイザナギに対して鬼を動員してたりもする

 

天照大神もイザナミから生まれた太陽の神様なんだけど、古事記だとイザナギが黄泉比良坂から帰ってきたときに生まれたらしい

 

今、もやっとした妄想にあるのは各呼吸の最後の技は神話の神様の名前が付くんじゃないかってことと、イザナミとイザナギ、鬼と人の対比とかないかなってこと

 

優れた呼吸の使い手が柱と呼ばれるのは、呼吸を極めたものが行きついた先は太陽神から新たに生まれた神みたいな扱いだから単位が「柱」なのかな、みたいな

 

うまいことまとまってなくて、言ってることがめちゃくちゃだから早めに整理してしまいたい

 

そもそも的はずれな考察な気もするけど…