12話を見終わった直後の感想殴り書き
けものフレンズ2の最終話を見ました
私自身は熱心なたつき信者でもないし、けもフレというIPの信者でもありません
「けものフレンズ」というアニメを見てファンになり、監督交代によって不安を覚えたとか、たつき監督が作った1期と地続きの続編を見たかったとか、そういう思いがあったことは事実ですが、好きになった世界だったからという理由で2期のことは応援していました
別にたつき監督じゃなくても面白い作品が生まれればプロジェクトは続いていくだろうし、けもフレという作品のポテンシャルはそれを実現するのに十分あったと今でも思っているからです
正直なところ、けもフレ2には3話くらいで話の面白さを求めるのは辞めました
キュルルことスケブ太郎がよくわからん理由や方法で問題を解決し、なぜか称賛されていく様は、今はやりのなろう作品のフォーマットそのままですし、その要素全てが受け付けませんでした
フレンズたちとのやり取りも、1期とは異なりギスギス感というか余計な一言が多く、楽しいものとは思えませんでした
うまいこと皮肉っぽく言おうとしたものの、会話に水を差すようなことしか言えてないやり取りの応酬は、テンポも悪かったですし視聴者側としてもイラっとくる発言が多かったように思います
つまり、本作品が提示してきた「面白さ」は自分の感性と本作品は全く相いれませんでした
まあそれは「私には合わなかった」だけなので
特に批判もせず、かといって期待もせず
けもフレ2という作品の結末を見るために、毎週消化していました
けもフレ2で提示された世界観や設定の真相には興味があったからです
・キュルルの正体
・「おうち」の正体
・無機質な大型セルリアン
・ビーストの存在
・人型セルリアン
・海底火山の活発化
・かばんちゃんとサーバルちゃんに何があったのか
最後の設定に関しては、2のストーリーに直接かかわるものではないので、別に触れてくれなくてもよかったし、何なら触れないことで1期の想像ができることから、解決されなくても別に問題ありませんでした
ただ、他の謎についてはなんでぶん投げたの????って感想しか出てきません
研究発表とか聞いてても感じるのですが、作中で触れないなら出さないでくださいよ
100000000歩譲って、セルリアンやビースト関連は単なる設定だから無視するとしましょう
主人公格のキュルル関連の謎をっ全部ぶん投げるってどういうことですか
ひょっとして、「キュルルの正体はじゃぱりパークが正常に開園していたころの人間で、「おうち」はフレンズの皆と一緒ならどこでもよかった!12話で説明しきったでしょ」とか言うつもりですか?
視聴者を舐めすぎでしょ
キュルルが人間なのはわかった
こっちが気にしてるのは、客としてのキュルルと今のキュルルの間に何が起きたのかってことなんですけど
1期を踏襲してヒトのフレンズなのか、それとも人間そのものなのか
なんであのカプセルみたいな場所にいたのか
くらいは作中で説明してくれないと納得できません
これも「それはあなたはそう感じたんですよね?」案件なんですか?
「おうち」に関しても、設定をぶん投げるなら今までの旅は何だったんですか?
何のために旅をしていたんですか?
この結末につなげるなら「おうち」探しの設定必要でしたか?
私はけもフレ2に存在する物語は「キュルルは何者なのか」以外は存在しえないと思っています
キュルルの正体はブラックボックスになると譲っても「キュルルのおうちとは何か」というのがけもフレ2の物語の根幹のテーマだと思っています
1~11話は全てキュルルの「おうち」探しに費やされているからです
しかも、精神的に安らげる場所としての「おうち」探しではなく、物理的に存在していたであろう「おうち」を、スケッチブックの絵を探すという構成で進めていましたよね
私の解釈が間違ってるのかもしれませんが、イエイヌが提供するイエイヌのための「おうち」ではなく、キュルル本人が自ら見つけ出すための「おうち」を探すためにイエイヌを置いていったんですよね
キュルルにとっては、イエイヌが住む場所は「おうち」ではなかったから切り捨てましたよね
過去には「おうち」が存在したであろう描写を散々やっておいて、結末は「みんなと一緒の場所がおうち」ですか、そうですか
結局、キュルルはどこから来て何で今の現状になったのかは明らかにしないままおしまいですか
物語として成り立てませんよね
起承転結の起と承を延々と繰り返しておしまい!!!ってやって、作品として面白いですか
メタ的に考えれば120話構想の発現が示すように、本作はけものフレンズというシリーズのなかで、起を担当していたのだとは思います
ぶん投げられた謎はぶん投げられるために出てきているのであって、そもそも本作で解決しようとしていなかったという見方もできます
それならば、なおさら本作は本作としてまとめられていないことに腹が立って仕方ありません
回収するつもりがないならないで、それが気にならないようなストーリーにすればよかったのに、作中でも中途半端に触れてぶん投げるから気になってしまうのです
結局、作中で提示された謎や問題は何も解決できず、本人が満足したからOKでしょって納得しろということですか
私は1期のことは抜きにして、2期単体で見ても全く面白くはなかったです
もし、けもフレ2のファンの方がいたら、どの辺が面白かったか教えてほしいです
別に批判をしたいだとか、議論をしたいだとか、叩きたいだとかは全くなくて、至極単純にこのアニメのどこに面白い要素を感じ取ったのか教えてほしいです
けもフレ2という作品全体への感想
曲について
BGMの使い方は、緊迫した場面でほのぼのしたBGMを流したり
「うーん」となることが多かったです
一方でOP、EDの曲は素晴らしかった
自分がファンなのもありますが、オーイシマサヨシさんの「乗ってけ!ジャパリビート」は素晴らしい出来だったと思います
キャッチ―さでいえば、「ようこそジャパリパークへ」のほうが強かったですが
ジャパリビートのほうが繰り返し聞いて噛みしめると良さが段々とわかるスルメ曲でした
曲はモノレールで旅をすることを想定して作られていたと思いますが、本編ではモノレールがすぐにお役御免になっており、OPと本編でちぐはぐさが残っているのが、唯一の欠点でしょうか
曲は本当によかったんですけどねえ
キャラクターについて
CGモデルは前作よりもかわいくできていると思います
前作のほうが癖になる顔立ちでしたが、これは好みの問題でしょう
ネットでは人気のロードランナーとイエイヌだけは彼女たちの行動原理が見えたので
キャラクター像を掴むことができましたが、そのほかのフレンズは一貫して性格が見えてきません
そのため、愛着を持つことができませんでした
サーバルなんかは急にアホになったり賢くなったりして
「そんなキャラだっけなー」
と違和感を感じることも多かったです
モブフレンズはそもそも性格が印象に残るシーンがありません
本作と前作の大きな違いは
前作は動物を描写したのに対し、本作は動物の特長を描写したことでしょう
例えば、サーバルは木の上が好きで仮が好きだったりする一方で、料理のことを知らず箱の中のパンフレットを取れないなど、一貫して「喋る人型の動物」として描写されていました
しかし本作では、ジャンプ力がすごいなどのサーバルの特長を表すシーンはあるものの、サーバルっぽい仕草はあまり見られず、人工物に理解を示すシーンもあり、「動物の特長を持つ美少女」として描写されていました
本作では動物っぽさを走るのが早い、空を飛べる、泳げるなどの「○○ができる」というゲームのスキル的な描写に留めた点で、動物の擬人化ではなく人の動物化になっていたと思っています
この動物を描いたのか、動物っぽさを描いたかの、わずかな違いが視聴者に違和感として残ったのではないでしょうか
動物アニメからケモノ化美少女アニメへとなってしまったせいで、美少女なのに動物という異質さがなくなり凡庸な作品になってしまいました
ちなみにPPPのライブがペンギンっぽくないという意見に関してはどっちでもいいなという感じです
動きはぬるぬるしていてすごいなーと思いますし、アイドルライブとして考えるなら、前作よりもクオリティが高くて良かったと思います
カメラ目線なんかも別にメタでやってくれてるってことで自分は納得していました
そもそもPPPという存在が不必要だと思っているせいもあって、特に気にならなかっただけかもしれません
ギスギスした雰囲気について
初めにも書きましたが、たつき監督の作った続きが見たかったというのを否定はしません
そりゃ面白かった作品の続きを見たいと思うのは当たり前だし
漫画だって続編が別の作者によって作られたらいやでしょ
けもフレの総監督は吉崎観音だから、関係ないだろと言われればそうかもしれませんね
だからこそ、ネットに流れる噂は信じないようにして、面白い続編ができるのを期待していました
色々な人の解釈で自由にけもフレワールドを広げたい、みたいなこと書いてあったと記憶しているので、全く新しいアプローチでけもフレの世界を見るのも悪くはないなと
そうしたら、なんとかばんちゃんは出るわ、明らかに1期を意識した構成だわ、で
どう考えても1期と地続きの続編が出てきて落胆しました
「結局、続編なんかい」というのが第一の感想です
視聴してすぐに気が付きました
「キャラの発現が刺々しい」
雰囲気が前作と全く異なるわけです
たつき監督けものフレンズに見られる吉崎版からの“トゲ抜き”(トゲ抜きの無いけもフレ2との比較) - Togetter
この原因はこちらのまとめを読んで理解しました
要は2期の雰囲気がもともとのけものフレンズの世界観だというわけです
IQが溶けるだとか、優しい世界というのは、たつき監督の手によってもたらされたものであって、本来それはけものフレンズが意図するものではなかったようです
本来のけものフレンズは厳しい世界で厳しく生きるがモットーで
言葉のやり取りもお互いにチクチクと刺し合うような関係性で、無邪気だけど残酷で攻撃性を無意識に持つ世界であると理解しました
私は前作の雰囲気が好きでしたが、単に作風の違いなので会う合わないもありますし、2期の視聴はしんどかったですが叩くほどのことではないと思っていました
脚本について
私が一番しんどかったのは、脚本の出来のお粗末さです
こちらの動画で詳細に解説されているように
旅の目的、移動指針、問題の発生原因、問題の解決方法すべてが「いやそうはならんやろ」としか思えませんでした
「スケッチブックの絵の場所を探す」という目的に対して、行き当たりばったりで移動するのもよくわかりませんし、結果的にうまくいってるのも納得できません
おつかいに行こうとして迷子になり、適当に歩き回ったら、たまたま目的のお店を全部回れました
とかそれと同じです
なんでモノレール乗ってに行こうと思ったのかが全然よくわかりませんでした
しかもすぐモノレールには乗らなくなるし…
問題があるからフレンズが困っているのではなく、フレンズがいるから問題が発生するという構図になっていることもストレスの一因です
見ていても、このキャラがうっとうしいな~とは思っても、可愛いと思うことはほとんどありませんでした
世間では人気のゴマすりクソバードことロードランナーも個人的には好きではありません
一番ダメだったのが、キュルルの提示する問題解決方法です
リレーも紙相撲もパズルも、その他キュルルの行動によって結果的にうまくいっては
いるものの、見ている側としてはやっぱり「いや、そうはならんやろ…」という感想しか出てきません
よくわからんまま移動して、よくわからんまま問題が起きて、よくわからん方法で問題がするっと解決されて、よくわからんまま次の場所に向かう
という流れが11話かけて行われ、12話ではそのどれも解決することなく、キュルルが楽しそうだからOKでおしまい
もうちょっとどうにかできたでしょ、というかどうにかしろよ、というのが率直な感想です
ビーストに関してもセルリアンに関しても、問題視されていたにも関わらず偶然すべてがキレイに片付いたわけで、登場キャラクターは何をしていたんでしょうか
そしてビーストの扱いに関してはひどすぎて何も言うことはありません
単なる舞台装置として死んでしまっただけなので、これが動物ファーストのやることなんですか
ぶん投げられた設定について
設定が唐突に現れては消え、現れては消え、いったい脚本として何がしたかったのかわかりません
上で挙げたものに加え、極楽バードの存在とか結局なんだったのという感じです
もう大成功しなくていいから、けもフレ2で提示したセルリアン関係とキュルルの正体だけ回収してくれたら、私は満足だったのですがそれさえもやってくれないなんて・・・
単純にがっかりというか、怒りを通り越してあきれていまいました
1期にあったセルリアンの弱点の話もなくなり、みんなワンパンで倒す割にセルリアンに怯えるのが滑稽すぎて何も言えません
幼児向けのアンパンマンですら、もう少しバイキンマンから痛い目に合ってると思いますし、警戒するのもわかるんですが
無機質な大型セルリアンとは?
ヒト型セルリアンがなぜ絵から生まれてくるのか?
ヒト型は同じフレンズじゃないと倒せないとは?
思いが強いほどセルリアンが強くなるとは?
この辺の設定は唐突に出てきて、消え去った設定ですよね
一応、考察というか、因果関係は考えてはいて
大型セルリアンの登場→人の思いがこもった物からセルリアンが生まれる伏線。人によって世界(自然)が破壊されたことを暗示
絵からセルリアン→絵には人の思い出が詰まっているので、セルリアンが生まれる
同じフレンズじゃないと倒せない→同程度の能力がないと倒せない
思いが強いほど強い→まあ最終的に盛り上がる要素ではあるのでわからんでもないが、フレンズに順序をつけることになるので、取り入れるなら力関係は人型セルリアン>フレンズで苦戦するけど、最後の友情パワーでセルリアンに打ち勝つくらいにしてほしかった
というはずなので、まあ理解はできると言えばできるのですが、説明はしてくれよと
2期のテーマはなんだったのか?
表のテーマ
前作のテーマは「ヒトはけものと対等な仲間で友達になれる」みたいな感じだと思うのですが、けもフレ2のテーマはどういうものだったのでしょうか
私は「人と動物の社会的な関係」だったのではないかと思います
1期は人と獣は対等であるというメッセージを込めていたのに対し
2期は「いやいやそうは言っても違うでしょ」というメッセージを突き付けるものだったのだと考えています
上のTogetterにも見え隠れしていますが、本来のけものフレンズの世界観は厳しい世界で厳しく生きることだと思うので、「対等に見えても、けものは人に支配されている。そこをどう乗り越えるのか?」というのが2期のテーマだったのかなと
1期は自然な動物の生態や行動だったのに対し、2期では「おねだり」や「タイヤでの遊び」、「ヒトと遊ぶ犬」など人工的な仕草や習性が強調されていたのはテーマに沿った結果だったのでしょう
そしてもう一つテーマがあったと考えていて
「ヒトが自然を破壊する元凶である」
というメッセージもあったのではないかなと
本作のセルリアンが全て無機物を模倣していたのは、人の業が動物に悪影響を与えることの比喩だったと考えています
この2重の「人→動物」の構造を描こうとしていたのではないかなと思います
人は動物の仲間だけど、実質的には支配者であり、動物を苦しめる存在である
→人と動物は対等な仲間で協力して生きていかなければならない
この流れをが2期がたどり着こうとしていた結末だったのではないでしょうか
初めから対等な仲間だった1期に対し、着地地点は同じでも2期では関係性が変化していく様を描きたかったのかなと
ギスギスしていたのは単なる脚本上の作風で他意はなかった可能性が高いですが、支配構造を打破して対等な立場として改めて協力するための布石として描いていた可能性もあると思っています
キュルルが遊びを提供していたのは、人と動物が対等な関係になる、ということを示したかったからだったのではないでしょうか
問題解決方法を提示するのではなく、ヒトであるキュルルも動物であるフレンズの輪に入っていく過程が遊びだったのではないかと考えています
1期のかばんちゃんは「ヒトである自分に何ができるのか?」と考えた結果、ヒトとしての知恵を活かしてフレンズを助けていき、最終的にはフレンズの仲間になっていきました
2期のキュルルは支配階級である人が、被支配階級である動物に歩み寄っていき仲間に入っていく構図であり、やろうとしていたこと自体はかばんちゃんと同じだったと考えています
キュルルの遊びは叩かれてしまった理由は、単純に演出がしょぼくて
キュルルの行動が「なろう作品」のようで視聴者の癪に障っただけだと思います
裏のテーマ
この作品には一貫したもう一つのテーマがあると思っています
それは「1期の否定」です
初めは単に演出能力不足でそう見えているだけで、悪意を持っているとか言いすぎではないか、と思っていましたが、12話で悪意を確信せざるを得ませんでした
「前作を否定しなかったものとし、本作こそが正当なけものフレンズである」という主張をするために生まれてきた作品なのです
この悪意が生まれた経緯を邪推すると
いつの間にか、「けものフレンズ=たつき」の構図ができてしまい
ただの雇われ監督に名声が持っていかれることが許せなかった
しかも、たつき監督が描いた世界は、本来のけものフレンズが意図したものではなかった
「本来の作品性を捻じ曲げられ、しかも大人気になった状況が許せない
でも、けものフレンズというIPはたつきなしでもやれるポテンシャルがあるんだ」
ということを誇示するために
1期の構図に2期の「本来の」けものフレンズのエッセンスを足していったのではないでしょうか
1~11話で制作側としては「たつきはこう表現したけど、本来のこっちの演出のほうがいいだろ?」と言いたかったのだと思います
しかしながら、1期の要素は1期全体で筋が通った状態だから良かったのであって、いいとこ取りをしようとして、チグハグな出来になった印象を受けます
唯一、明確に2期が優れていたのはPPPのライブシーンくらいです
そして問題の12話ですが
完全に「現KFPがたつきを超えていく」ということを表現した話だったと思います
本物をコピーした人型セルリアンが前作12話を意識した構図で立ちふさがるシーンは悪意の塊でしたね
ニコニコ動画より
アマゾンプライムビデオより
コピーを前作の構図で並べて打ち倒すさまは
「お前らみたいな偽物は本物の私たちが倒しますよ」
というメッセージを感じずにはいられません
そして、ラストのかばんさんとサーバルのやり取りも
「サーバルは前作のかばんではなく、本作のキュルルを選ぶ
=けものフレンズは私たちのモノだよ」
というメッセージ
サーバルの記憶喪失も、前作のことは今後、忘れていきます
という意思表示
なのかなあと邪推してしまいます
またCパートのイエイヌの描写も
キュルルは過去に客としてジャパリパークに来ており、サーバル達フレンズとは先に仲良くなっていた
つまり、歴史的に「キュルル→かばん→キュルル」でありかばんの冒険は外伝になりました
というメッセージでしょう
これらは全て私の妄想にすぎませんが、本作からは無能では片づけられない意志の強さを感じずにはいられません
全てポンコツならいいのですがやらなくてもいい表現、特に1期の要素を否定する部分はしっかりやっているところに主張の強さを感じてしまいます
これまでの描写を素直に受け止めると
「1期、かばん=たつきを倒し、キュルル=KFPこそが正しいけものフレンズなのだ」
ということを言うためだけに作られたと考えずにはいられないのです
まとめ
私がけものフレンズ2で悲しかったのは
・単純に2期の出来が想像以上にひどく、単体でも楽しめるようなものではないこと
・1期を否定するような要素が多く、それは意図的な悪意によるものの可能性が高いこと
の2点です
人に寄っては製作者のツイッターでの態度に怒っている人もいるでしょうが、私は作品は作品として評価するようにしています
世界観が好きで楽しみにしていたのでできるだけ悪いことは書きたくなかったです
それでも、とても擁護できるような出来じゃなかった
こんな出来なら2期なんて要らなかったと思います
「けものフレンズ2」は成功へのハードルは高かったかもしれませんが、失敗のハードルはとても低かったと思います
前作がアニメ史に残る奇跡の出来だったので、それを超える成功はたつき監督が続投していても難しかったかもしれません
しかし、爆死することはなかったでしょう
けものフレンズ2が失敗するためには
たつき監督を続投させる、前作とは全く違う世界観で作る、フレンズだけのほのぼの日常ものにする、伏線を広げず、動物ファーストを貫きビーストを助けるEDにする
を全て行わないという、選択肢の中で最悪のものを選び続けないと達成できなかった可能性が高いです
普通に作ってもポテンシャルで佳作にはなったはずだし、失敗しても期待外れの駄作どまりだったはずなのに
全ての地雷を踏みぬいた結果、駄作からさらに下に行ってしまいました
製作期間が短かったけど頑張って作ったものの、微妙な出来だったというだけでは
視聴者が「期待外れで残念」で止まらず、怒りまでいくようなことはなかったはずです
頑張って作ったようには思えないのにもかかわらず、作品の中には前作のファンをバカにする悪意を込める
こんな最低な作品に仕上げてくるとは思いもしませんでした
もうけものフレンズという作品はおしまいでしょう
1期「けものフレンズ」という新しい世界を一瞬でも夢見ることができ、オーイシマサヨシという素晴らしいミュージシャンを知ることができてよかったです
次、アニメが作られたら見るかはわかりません
ただの動物美少女アニメならあまり興味をそそられないので
動物ファーストの生態アニメなら少し考えます
こうあってほしかったけものフレンズ2の妄想
正直、キュルルとイエイヌで12話作ったほうがよかったんじゃないかと思っています
現実の2期がショックすぎたので、自分のなかで理想の2期を考えて妄想が止まりませんでした
悪意も含めた設定をそのまま拝借するなら
キュルルは昔パークに来ていた(住んでいた)客でイエイヌと仲良しだった
セルリアンの大異変でキュルルは大ケガを負い、やむを得ずサンドスターのカプセルで保護することに
ケガが治り目が覚めたキュルルは記憶がなくなったところがスタート
・キュルル は記憶を探すためにサーバルカラカルと旅をすることに
・スケッチブックにモノレールが映っているのでモノレールに乗ってパーク内の色々な場所を訪れる
・行った先でフレンズが退屈していたのでキュルルが遊びを提供して仲良く遊ぶ
・遊んでいるうちに記憶が少しよみがえる
・過去の絵に、今回遊んだ内容を付け加える
・次の場所に向けてモノレールに乗る
みたいな流れを基本は繰り返す
記憶をなくしたイエイヌもぼんやりと人を探している様子をBパートで流す
みたいなストーリーを大筋にする(1~6話)
PPPライブ(7話)
ライブを盛り上げるために案が欲しい→劇をやる
ビーストはフレンズが野生開放をした際にサンドスターが暴走した姿
ビーストからフレンズに戻るのは難しく、一度動物を経ないといけないため記憶をなくす
みたいなのを、アムールトラを出して途中でやる
ビーストからフレンズに戻す方法を探す、ビーストをフレンズに戻す(8~10話)
パーク内を動き回っていたキュルルとイエイヌ落ち合ったけど、記憶がないからなんかぎこちなくて…
接しているうちに、キュルルとイエイヌのお互いの記憶がよみがえって喜んでいたけど、巨大セルリアンに襲われて、イエイヌがビースト化(11話)
ビースト化して巨大セルリアンを倒して
「短い間ですけど楽しかったです。記憶がなくなっても、また遊んで思い出をたくさん作りましょう」
「これまでのことも、これからのことも一生忘れたくない!だからイエイヌも記憶をなくさないでくれ」
みたいなやり取りをキュルルとイエイヌでさせて
そしたらご都合主義的にサンドスターの柱が光って、記憶をなくさずにイエイヌはフレンズに戻る
初めの場所でモノレールの路線が別れていて片側は今回の旅で使った路線、もうひとつが別の地方につながる路線
んで、モノレールに乗って未知の場所へ人を探しに、そして新しいフレンズと遊びにキュルルとイエイヌは旅立つ’(モノレールが出発する前からジャパリビートが流れる)
小さくなるモノレールと見送るフレンズ
ジャパリビートが2番に入ったところでスタッフロールとキュルル&イエイヌが旅先のフレンズと遊んでいる映像とキュルルが描いた絵が流れる
EDが終わったらCパートに入って、大きくなったキュルルとイエイヌの後ろ姿
サーバルとカラカルに向かって「ただいま~」と言いながら走って行って帽子が宙に舞ってEND
かばんちゃんとの差別化としては
かばんちゃんは「自分にできること」は何かというアプローチだったけど、キュルルはみんなと楽しむために輪に入るみたいなもう少し年齢低めな感じでいくとこ
問題の解決方法とかじゃなくて、ひたすら仲良く遊んで思い出を作っていくとこにフォーカスしていく感じ
戦闘に関してはセルリアンは基本的にビーストに倒させる感じにする
闘争本能だけ残ってるからセルリアンを優先的に倒すけど、近づいたフレンズも攻撃しちゃうバーサーカーみたいな存在にする
だからこそ、イエイヌが自らビーストになって、これまでの記憶と引き換えにキュルルを守ったらエモいかなって思った
しかも、記憶がなくならずハッピーエンドならなおさらエモいかなって
これで2期はよかった
海底火山とか大型セルリアンとか人型セルリアンとかかばんはカットする
たぶん、プロが作るものよりも面白くないけど、こういう感じのやつでよかった…
2次創作をする人たちの気持ちがはじめてわかってしまった
これで「時空を超えたヒトと動物の絆」みたいなものを描けばよかったんじゃなかろうか
まあどんなことを書いても全て妄想だし、けものフレンズ2のEDはああなった事実は変わらないのだけども