「ありのままの姿見せるのよ」
アナと雪の女王が大ヒットしてLei it goが流行ったのも、もう6年前の話である
「ナンバーワンではなくオンリーワン」で大ヒットした世界に一つだけの花にいたっては、もう17年前の曲である
定期的にこういう趣旨の曲が流行ってしまうのは
「誰かと比べられることがなく、自分をそのまま見てそのまま愛してほしい」という願望が強くなってきたせいか、ゆとり教育を筆頭に個性を見る風潮が強くなったせいか、あるいはその両方かもしれないし、他の要因があるのかもしれないし、実際のところはわからない
ただ、言わんとしてることには共感してしまうし、自分と同じように考えた人が大勢いるからこそ流行ったのは間違いないだろう
着飾ることなく、卑下することもなく、自然体で存在して、「世界に容認してもらいたい」気持ちは非常によくわかる
こういう感覚は「他人に無条件で認められたい」という無償の愛情を求めていることと同じなので、だいたいの人は「いい年して情けない」「子供かよ」みたいな反応があったりするのだけども、程度の差はあるが自分で自分を認めることができないのだから仕方がない
自己肯定感が低いとどうなるのか
この自分で自分を認める感情は自己肯定感というのはよく知られたところである
wikipediaでの定義は
自己肯定感(じここうていかん)とは、自らの在り方を積極的に評価できる感情、自らの価値や存在意義を肯定できる感情などを意味する言葉であり、自尊心(英語: self-esteem)、自己存在感、自己効力感(英語: self-efficacy)と同じ意味あいで用いられる
自己肯定感 - Wikipedia 2019/3/29
私もおそらく自己肯定感が低い人間である
自分自身では自己肯定感が低いとは思っていなかったけど、他の人から低いと言われ続けているし、自己肯定感が低い人の言動と一致する部分も多いので、そう結論付けざるを得なかった
自分のことは
「能力も低いし、コミュ力もないし、人間的魅力にも乏しいし、基本的には価値のない人間だ」
という認識なんだけども、普通は自分のことをここまで卑下しないらしい
一応、それぞれの認識には根拠があって
能力が低い→学歴が乏しい、研究結果が残せていない、ビジネスに秀でているわけでもない
コミュ力がない→友人が皆無、人見知りをする
人間的魅力に乏しい→友人が皆無、年齢にかかわらず人が自分に興味を示さない
価値がない→上記を考えると長所がなくて短所しかないので、存在意義が見いだせない
という認識なんだけど
リアルやネットでいろんな人を眺めていると、自分に価値があるとか、ないとか考えている人はいても、全部がネガティブ方向に行く人は少なくて(ネットだとリアルよりは多いけども)、自分は感覚がずれてるのだということを再認識させられる羽目になった
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自己肯定感が低くなる原因は何か
自己肯定感が低くなる原因は非常に単純で、自分の存在を他人と比較することで成立させているからに他ならない
他人と比較して、結果を残したかどうか
他人と比較して、友人が多いか
他人と比較して、優れた部分があるか…etc
競争社会なので金銭面で不利を被ることはあるかもしれないけど、頭がいい人間が偉いわけではないし、「頭の良さ」は評価する文脈によって変わるものだし、要は比較基準そのものが変わっているので、固執するメリットはないはずだ
何が偉いか、どういう価値があるかというのは、自分にとってどうかという主観的な話で、極端な話をすると、他人がどう思っていても「自分は天才だ」と信じ込んで生きていても何の問題もない
自分という存在の価値を自分で認めるプロセスにおいて、他人の存在は本来は必要ない
自分を客体化することによって相対化した価値を敢えて落とし続けるのは、我ながら馬鹿だなあとは思うけど、無意識的にやってしまうのだから救いようがない
自己肯定感と客観性
自己肯定感が低い人がやってしまいがちな「無意識かつ一番ムカつくマウントの取り方」とは「すごいわかる」「気をつけたい」 - Togetter
これは自己肯定感が低い人が陥りがちなんですけど、低い自己肯定感故に自分ができたものは「無能な俺ができたんだから誰でもできる」「できるのが普通」と感じてしまい「普通にやればできるでしょ 逆にどうしたらできないの…?」などという無意識かつ一番ムカつくマウントの取り方をしてしまうんですね
Togetterにこういうまとめがあったのだけど、モロに自分と同じだったので
「自分以外にもこういう考え方の人はたくさんいるんだ」とある種安心したりもした
自己肯定感が低いゆえに、自己評価が低くなるのは当たり前の流れだし、それゆえに自分の能力・業績を世界の最低レベルであることを前提として話してしまうのだけれども、これは色々な意味で「良くないことである」という自覚がある
この理由は2つあると思っていて
まとめにもあるように無意識のマウントになっていること
現実から大きく外れた評価は現実逃避でしかないこと
が特に問題であると考えている
無意識のマウントは本当に人間関係に支障を与えていると思っている
例えば「東大だけど勉強なんてやればできるし、自分はとりえのないバカです」と言っているのを見ると、自分は学歴コンプレックスのせいもあってイライラしてしまう
この場合は東大に入れている時点で、受験時の学力・思考力は上位5%には入ることが担保されているのにも関わらず、「バカ」と自称するのはマウント以外の何物でもない
「いや日本の人口のほとんどはあなたよりバカなんですけど?」とか思ってしまう
もちろん、こういう発言する人の意図としては
向上心があって上位の能力を持っている人に目が向いていて、周囲に自分よりも優れた成果を残している人がいるために
その人たちと比較するとバカだと思ってますってことに過ぎない
純粋に向上心に突き動かされて、現実の成果が自分の理想と食い違うときに
こういう心境になるはずだと思っていて、そういう観点からはこの考え方は最もに見える
じゃあなぜこれがマウントになってしまうのかというと
自己評価を本人の実力とのギャップ差以上に下げてしまっているからである
結果を残すという観点からだけ考えると、自分より能力がない人と比較するよりも、能力がある人と比較して、自分に足りてない部分を補うようにするべきなのは間違いない
自分より優秀な人がたくさんいて、その人たちとの実力差に打ちのめされているとしても「東大で落ちこぼれ」は「東大で落ちこぼれ」以上でも以下でもなく、「何の取柄もないバカ」まで客観的な評価が下がることはあり得ない
なのに、自己評価をそこまで下げて、さも自分が最底辺かのように振る舞うから反感を買うし、マウントになってしまっているのであると思う
これに関しては、自分も同じようなことをやっていた(る)ので耳が痛い話ではあるのだが、可能な限り改善したいとは思っている
さてもう一つの現実逃避になっている理由は
向上心と自己肯定感の低さが原因で、自己評価が低くなっているとしても、自己評価を客観的な評価と過剰にずらすことで、自分の欠点を直視しなくてもよくなっているからである
この状態は諦観によるもので、現状打破へのモチベーションとはなり得ず、結局のところ「出来ない理由探し」あるいは「出来ないことへの理屈付け」に他ならないからだ
諦めることは時として大事なんだけども、個人的な体験としてはやり切って諦める場合はならスパッと辞めることができていて、未練があって意志としては続けたいけど、壁にぶつかって打ちのめされるのが嫌な場合に、このような諦観になる場合が多い
やり切って諦めるときは、「努力が足りなかった」とか「才能が足りなかった」とすっきりとした気持ちで振り返ることができるし、成果が残ってなくても大して尾を引きずらない
自己肯定感が養われるわけではないけど、だからと言って卑屈になることもない
終わった事実は事実としてニュートラルな気持ちで捉えることができる
一方で、自己評価を過剰に下げるような状況は
現在もそれと関りがあって努力する機会も目的もあるのだけど、再び失敗するのを恐れている状態にこうなっている人が自分含め多い気がする
「以前の失敗があったから、自分には能力がなくて、失敗しても仕方がない」けど「努力してやりたいことを勝ち取りたい」という葛藤が生じたときに、失敗した場合の予防線としてこうなっているのではないかと思う
また逆に過剰に自信を持っている場合は
「努力をせずに成功したい」という気持ちからくるものなので、いずれにせよ自分の現実から目を背けているという点では同じである
以上のことから、自己評価を過剰に下げたり上げたりするのは
人間関係の点からも、自分の努力のためにも意味がないどころか、むしろ悪影響しかないと考えている
どういうメンタリティで生きるべきか
自分の周りという狭い環境でしかないけども
自己肯定感が低いままで、自分のやりたいことをやり遂げている人はいない
「何でもできると思い込んで挑戦し、できなかったなら努力をする」
という当たり前だけど、しんどい行動パターンが即座に実行に移せるからかなと思っている
人にあーだこーだ言われても、「またわかってないやつになんか言われてら^^」ってスタンスのほうがストレスは少ないし、内容が最もそうなときは真摯に受け止めれば、頑固と見られても、実力がないのに天狗になったと見られるわけでもない
過剰すぎる自信は人の反感を買うけども、やや過剰くらいで悪い評価をされているのを見たことがないことに加えて
自己評価を下げると、自分を卑下する行為自体に不快感を持つ人、無意識マウントにイライラする人、発言を素直に受け取る人には受け入れられないから、円滑な人間関係を築くうえでも不利に働いてしまう
だから、根拠のない自信をもって、自己評価を必要以上に高く見積もるほうが
精神衛生上も対外評価上も有利だと思っている
自信があるように振る舞って、自分を追い込んでやらないといけない環境にするのも、それなりに効果的だし
(たまに全てを捨てたくなる自分みたいなタイプだと逆効果かもしれんけど)
今日のまとめ
必要以上に自信を持つことも、必要以上に卑下することもせずに
自分の実力・評価を客観的にフィルターをかけずに理解するのはしんどいけども、非常に大事な能力だと思っている
ありのままの自分がどういう価値を持つかは評価する文脈によって変化するので
他者と比較して出てきた結果そのものに大きな意味はない
「自分はどういうことができる(できない)から、今後は〇〇という目標に向けて、××をしていこう」
という人生設計に他人は必要ないし、人と競う必要があるならどうやったら勝てるか、ダメなときはどうするか決めておくだけで良い
自己評価を常にポジティブまたはネガティブな方向に振り切っているのは現実逃避でしかない
ありのままを受け入れてくれる人はいないけど、ありのままの自分を正確に見極めて
そのうえでどうすべきか決めていく必要がある
努力したら何でもいいわけじゃないけど、何かをやるためには行動に移さないといけないわけで、自分がやりたいことに自分で責任を持つなら、他人の評価とかは気にせずに自分でやるべき
そのために情報を仕入れたり、いろいろ考えないと、情弱ビジネスにはまったり誤った方向に努力してしまう懸念があるけど、本人が後悔していないならそれはそれでいいんじゃないかというスタンスで生きていくことにした
今後は自分の持っている能力を冷静に見極めて、やるべきことをやれるように頑張りたい